第10回翻訳コンクール 2次審査選考講評

 今回の課題部分は、ほぼ登場人物の紹介に終始しているためストーリィ展開としてのヤマがなく、内容も複雑ではないので、決定的な誤訳はほとんどありませんでした。
 ただ、もったいぶった言葉、大仰な表現、隠れた皮肉が満載という文章ですから、成功のカギは、“女性作家によるイギリスっぽい娯楽推理小説”の雰囲気をどれだけうまく伝えているか、にあります。簡潔すぎても、だらだらと丁寧でもだめで、やはり日本語が勝負ということですね。
 残念ながら今回、最優秀者はいらっしゃいませんでした。原点に立ち戻って考えてみると、プロとは何かという問題につきあたります。あと一歩という方がお二人いらっしゃいましたが、全ての文責を自分で引き受けるという“覚悟”が不足していたように思います。原文を手際よく日本語にするだけでなく、ご自分の“主張”をたっぷり入れた訳文を期待します。

【ポイントチェック】
* p.1, 10行目~ ‘My dear!’  ミセス・ディリントン=ブリックの口癖のようで、続けて3度も出てきます。三つをすべて同一訳語にするか、それぞれ違えたほうがいいか迷われたかもしれませんね。状況にぴったりなら、どちらでもいいと思います。同一訳語なら「いやだわ!」とか「まったくもう!」。変化をつけた方は、「まあ!」「なんてこと!」「信じられない!」などが使われていました。

* p.2, 1行目  They too, exchanged glances and thought of derisive things to say to each other when they were private in their cabin. ‘derisive’ は「あざけりの、愚弄するような、お笑いぐさの」といった意味の形容詞ですね。ここでは、カディ夫妻が「船室に落ち着いてから、なんと言ってあの女をこきおろしてやろうかと考えた」

* p.2, 12行目 ‘fussation’   この言葉はミス・アボットが fuss を変形させた造語でしょう。旅に大荷物を持ち歩く「わずらわしさ」を表す気の利いた言葉は何がいいでしょうか? 「無駄骨折り、うんざり感、うっとうしさ、から騒ぎ」など色んな工夫が見えましたが、これぞピッタリというのが見つかりませんでした。

* p.2, 17行目 ‘Killer Who Says It With Flowers. Still no arrest.’  新聞の見出しですから簡潔でなければなりません。「花に思いを託す殺人鬼 いまだ逮捕ならず」あるいは「花を置きみやげの殺人鬼 いまだ捕まらず」でしょうか。 その次の ‘longish sight’ は「遠目がきく、遠視気味の」です。

* p.2, 29行目 She stared greedily at ~  and derisively at ~ .  greedily と derisively の対比を明確にしてほしい文です。「魅力的なコーエン嬢のスナップを引き伸ばした写真のほうばかり熱心に見つめ、差し込み写真にはほとんど目をくれなかった」

* p.3, 12行目  To his intimates he could be hell.   ‘hell’ をどう訳すか、どなたも手こずったようです。「悪魔のような人間、たちの悪い人間、鬼のような男」などなど。「災いそのもの」とか「やっかい極まりない人物」はどうでしょう?

* p.3, 18行目  ‘Detested kite!’ Mr Merryman silently apostrophized her. ~    “頓呼法”で彼女に毒づいた。ということですが、「胸の中で芝居がかったセリフを吐いた」とか?

* p.3, 24行目  No doubt you prefer, as I confess I do, the undisputed possession of your chosen form of literature.’  メリーマンの慇懃だが嫌味と皮肉たっぷりな感じを出したいところです。「お好みの読み物はきっと、この私もご同様ですが、誰にもじゃまされずじっくりお読みになりたいでしょうから」

* p.4, 1行目  ‘Seeds of discord! Seeds of discord!’   「不和の種ですよ、不和の種!」といった訳が大多数でしたが、「不協和音です! 不協和音が響いてますよ!」とした方があり、とてもいいと思いました。

* p.4, 14~15行目  They settled down to talk Anglo-Catholic shop.  試験問題文中、Anglo が Ango となっていましたことをここでお詫びいたします。したがって、「二人の会話はアングロカトリック教会の仕事話に移っていった。」 それから次の行のMrs Cuddy  ~ smelt Popery. の解釈ですが、popery は通常ローマカトリック教(多少軽蔑的に)を指すので、ローマカトリックよりのアングロカトリック派をちょっと皮肉って「なんてヴァチカン臭いこと、と思った」とか、いっそ「なんて抹香臭い」としてもいいかもしれませんね。

* p.4, 25行目  He experienced a sensation which he himself would have attributed ~  うぶで堅物そうなドクター・メイクピースがジェマイマに胸のときめきを覚える場面です。「ドクターはなんともいえない感覚に襲われた。その症状を本人は職業柄、神経節になんらかの変調をきたしたためと説明するだろうし、医学的にはそのとおりだろう。だが、普通の人間ならきっとこう言うに違いない。胸がきゅんとした、と。」

* p.5, 4行目~ Jemaima carefully made her eyes blank and faced front.  Carefully を強調しすぎないほうが自然なように思います。「ジェマイマはそっと瞳から表情を消し去り、顔の向きを前にもどした。」とか? 次行の He was filled with a kind of astonishment. は「彼の胸は、ある種の驚きで膨れあがっていた」。「ある種の」は「経験したことのない」としてしまってもいいような気がします。ただ、ドクター・メイクピースが純粋にジェマイマに心惹かれたのか、何か別の伏線があるのか、この時点ではわかりませんね。

* p.6, 11行目  ‘You are wonderful!’  友人の茶化した皮肉を含ませて、「おみごと!」
とか「見事なお手並みね!」とすると、それに対する ‘My dear!’(いやだわ!)の口癖が活きますね。

* p.7, 2行目  ~ like an unstuck circular.   何に喩えているかイメージをはっきりさせること。だらしなく端のたれたシーツの様子を言っているのでしょうから、「はがれかかったポスターのよう」では?

* p.7, 10行目  Mr Merryman said: ‘That will do.’   この That will do. は、返答しようと口を開けたデニスにピシャリと言っているので、「いいか、頼んだぞ」「以上だ」の感じでしょう。

* p.7, 14行目  ‘And I’ll take me oaf,’ Dennis muttered pettishly, ‘he’s TT into the bargain. What an old bee.’  皆さん迷われたようです。実は評者もよくわからなかった箇所です。TTはおそらく、True Terror か Total Tyrant でしょう。(ネイティブの方に尋ねたのですが、納得する答えを得ていません。)「やってられないよ」ふくれっ面のデニスがつぶやく。「あんなわからず屋。とんだクソじじいだ」ということでしょうか? 的確な訳文がわかり次第ご報告いたします。