第15回翻訳コンクール 一次審査講評

一次審査の合格者は26名。うち、A+:1名、A:2名、A-:16名、B+:7名。
なお、この評価の内容については以下のとおり。

A+:当校研究室レベル
A :当校研究室レベルに今一歩
A-:日本語、英語力ともに一応の合格点
B+:日本語、英語力ともにもう少しの努力が必要
B :日本語は一応の合格点だが、英語の理解力がやや不足


【ポイントチェック】
① p1, 8行目~13行目
Carla had had the unfailing good sense to make Shepherd’s new self unremarkable; he was neither handsome nor striking in any sense. He had no identifying mole or coloring or manner of grooming. He was not interesting to look at, and it was highly unlikely that anyone would remember him or be able to describe him after having shared an elevator with him. He had become every man and no man. Terry Shepherd had disappeared.
カーラは抜群のセンスを発揮して、シェパードを平凡きわまりない男に仕立て上げた。どこから見てもハンサムではないし、目立ったところもない。印象に残るようなほくろもなければ、顔色にも身だしなみにも特徴はない。誰もふり返らないし、一緒にエレベーターに乗っていても、後でどんな容貌の男だったか説明できないような平凡さだった。どこにでもいる、ありふれた人物が生まれ、テリー・シェパードは消えた。

② p1, 下から7行目~5行目
“How does it feel? Any problems?”
“No, not at all,” he said. “It’s good. It looks great.” He stood and removed the paper from around his collar.
「どんな気分? 直してほしいところは?」
「いや、全然ない」シェパードは答えた。「完璧だ。すばらしいな」シェパードは椅子から立ち上がり、襟にはさんでいた汚れよけの紙をはずした。

③ p2, 下から10行目~4行目
The light rain had slackened to a mizzle by the time Shepherd got to Berkeley Square, where he had intended to hail a cab. Now he changed his mind. The weather was not so bad that he couldn’t walk, and the walking helped him think. The street lamps came on as he turned north on the west side of the square. The plane trees in the park sagged under the moisture of the last several days, and the pathways that traversed the lawn were empty and dreary. The wet summer evening had settled over the city like a soughing breath that was at one moment too warm and then almost chill.
バークレー・スクエアに着くころには、小雨は霧雨に変わっていた。そこでタクシーを拾うつもりだったが、雨もさほどひどくない。そのまま歩きながら考えることにした。スクエアの西を北に曲がったとき、ぱっと街灯が点灯した。広場のプラタナスは、ここ数日の雨で重苦しそうに葉を垂れ、芝生を横切る小道には人影もなく、物寂しげに見える。急に暑くなったり肌寒くなったり、気ぜわしい風を吹かせつつ、雨に濡れた夏がロンドンに居座っていた。

④ p3, 11行目~18行目
Up until the last few days he’d had nothing more in mind than stealing stolen money, taking something that didn’t belong to the person who had it and returning it, not to those from whom it had been taken originally―which would be an impossibility, like trying to return a cup of water dipped out of the sea to the exact same place from which it was taken―but no others in need, to the kind of people from whom it had been stolen in the first place. The method had been complex, the scheme convoluted, the technology sophisticated, but at bottom he was only running away with a gangster’s ill-gotten profits. Stealing stolen money.
つい数日前までは、取り上げた金を守ろうとしていた。踏みつけにされた人々に直接返すことが不可能な以上、せめてそれがゆえに今現在苦しんでいる人々のためにその金を使いたいと思っていた。そして、そういう巨額の金は、テクノロジーを駆使した、非暴力的な方法で奪い取ったのだ。しかし、とどのつまり、シェパードもまた、不法に得た利益を持ち逃げしているだけだった。誰かが盗んだ金を盗んだだけ……。

⑤ p4, 下から7行目~最後
“Nothing available, sir,” the clerk said, and Shepherd turned around.
“Not anything?”
“Not singles or doubles, sir. We have only suites.”
“One of those will be fine.”
The clerk accepted this quiet extravagance with smooth alacrity.
Shepherd quickly produced one of his forged passports and credit cards, and the clerk got busy putting together the necessary paperwork for the accommodation.
「あいにくですが、満室でございます」フロント係の声に、シェパードはふり返った。
「満室?」
「シングルもダブルも満室でございます。スイートならご用意できますが」
「では、それでお願いしようか」
 客のささやかな贅沢に、フロント係は愛想のいい顔を見せた。そして、シェパードが偽造パスポートとクレジットカードをさし出すと、宿泊に必要な書類をいそいそと目の前に並べはじめた。

 以上は、多くの方が誤訳をしたり、評価に差が出たりした部分だ。ご自分の訳文と比較検討していただきたい。お断りしておくが、訳例に倣わなくてはならないというわけではない。皆さんの訳文のほうが優れていることだって十分あり得る。
 似て非なり、という言葉があるが、注意していただきたいのは、大体同じことを言っているのだから文句あるか、という態度だ。これは、商業翻訳ならともかく、文藝翻訳ではまったく通らない。皆さんご承知のとおり、優劣の差がつくのはあくまでも、日本語の表現として優れているかどうか、なのである。

 例えば、③の最後の部分。ここは今回、もっとも評価の分かれたところだ。ご自分の訳と訳例とをじっくり見比べてもらいたい。特に、a soughing breathの訳が問題だろう。断っておくが、ここでも重視されるのは訳の正誤よりむしろ、日本語としての表現の優劣なのだ。
続いて⑤の “Nothing available.” だが、ご利用いただけません、と訳すのと、満室でございます、と訳すのとでは、内容は似たり寄ったりでも、表現的には明らかに差があるだろう。
さらに同じ⑤の、The clerk accepted this quiet extravagance with smooth alacrity. 訳例は実は、“太っ腹な客に、フロント係は――”とあったのだが、私が“ささやかな贅沢に”、に変えたのだ。太っ腹な客に、とは実にうまい訳だと思ったが、残念ながら、quietのニュアンスが出ていない。ささやかな、無頓着な、当然といわんばかりの、……いろいろ出てくるのだが、なかなかビタリとこない。訳者の苦労のし所、腕の見せ所と言っていいだろう。
 ともあれ、こういう部分のチェックは、最終的には訳者自身が自己の責任においてやるしかない。そしてプロの道が開けるかどうかは、ひとえにその努力を誠実にこなしていけるかどうかにかかっているのである。
 それでは第二次試験が始まる。ぜひとも頑張っていただきたい。