僕が一生を賭けて貫いてきたもの
皆さま、こんにちは。インターカレッジ札幌 文芸翻訳家養成校の責任者である山本光伸です。これから長きに渡り、このような形で皆さまと関われることになりました。よろしくお願いします。
まずは簡単な自己紹介から始めましょうか。僕は53歳まで神奈川県の逗子にいました。まあ、今は隣町の鎌倉の威光を借りて少々知られるようになりましたが、僕が子供の頃の逗子というのは山と海があるだけの、本当の鄙びた田舎町でした。そこで育ったのですから、やはり生粋の東京人とは訳が違います。僕がよく東京人と喧嘩するのも、何となく馬が合わないからなのでしょう。
高校3年の時にAFSの交換留学生としてアメリカに1年間留学、戻って来て国際基督教大学に入りました。入学したはいいものの、僕はどうしても卒業したくありません! 卒業して社会に出て、いったい何をしたらいいのか見当がつかなかったのです。途中で一度退学し、思い直して受験して復学し、計8年かけてようやく卒業したものです。
僕のこういう“自堕落”な性格は生まれつきのもので、今となってはもう直しようがないと諦めています。卒業こそしたものの、僕は中学1年から剣道をやっており、20歳の頃には剣道で身を立てようと真剣に考えていたのです! したがって大学を卒業し、結婚をしたにも拘らず、僕はどこにも勤めず、“週8回”の剣道の稽古に打ち込んでいたのです。
しかし生活はしなければならない。女房は喜んで勤めてくれましたが、僕も男として何かやらなけりゃならない。そう考えていた矢先に、大学の仲間が翻訳の仕事を紹介してくれたのです。僕はアメリカから帰国して以来、自分の勉強不足を痛いほどに痛感し、以後は読書に時間を割いてきたのです。
生活費稼ぎの“翻訳業”が実は曲者だったのです。僕は何しろ剣道メインでしたから、翻訳は文字通り、資金稼ぎでしかなく、こちらの翻訳が気に入らないのならいつでも辞めてやる、といった態度だったのです。しかしながらどういうわけか、『ゴッドファーザー』を始め、『トップガン』、ロバート・ラドラムの『暗殺者』から始まるジェイソン・ボーン・シリーズと次々にベストセラーに恵まれ、日本でもトップクラスの翻訳家になったのです。
ところが、僕自身がその“特異性”に気付かなかったのです! そしてつい去年まで、僕は翻訳家という肩書に頓着したことがなく、いつでも辞めてやるといった態度でした。ですから僕は、翻訳家としての名刺すら作らなかったのです。
そして去年の9月、ある方からアドバイスを受けました。「貴方にとって、一番大切なものは何なのか?」と。その時、僕はまるで雷に打たれたかのように、“翻訳”だと閃いたのです。僕が一生を賭けて貫いてきたもの、それはまさに翻訳業でしかなかったのです。
今にして思えば、僕はつまらない顔をしながら、それぞれの翻訳には命を賭ける気だったに違いありません。これに気づいたのが去年だと聞いて、笑い出す方もいらっしゃることでしょう。僕自身がしばらくぽかんとしていましたから。こんなに近くに、自分が邁進すべきものがあったとは。僕は今度こそはっきりと認識しました。僕は残された人生のすべての時間を駆使して、インターカレッジ札幌で文芸翻訳家の育成に努めることを。皆さま、どうぞご期待ください。
以上が山本光伸の今日です。これからが勝負です。僕は持てる力の全てを注ぎ込むつもりです。